昨日はクラスのお楽しみ会がありました。
僕のクラスのお楽しみ会は、やりたい係がスケジュールを組みに来たもん勝ちのシステムです。
僕は二週間ほど先の予定まで立てているので、1~2週間前に相談してくれたら、週1の学活の時間を係の子に与えます。
もちろん、係の子達には1コマ分を責任をもって仕切ってもらいます。そのための準備もしてもらいます。
昨日行った係は男の6人グループ。その内の1人は一生懸命考えていましたが、残りの5人は、「時間をください」とお願いしにきたとき以外は活動をしていない様子でした。
僕は基本的に詮索しないので、係の子達がどこかで時間をつくってやっていると信じていました。
がしかし。
昨日のお楽しみ会の進行は滞りが多く、クラスの子たちも進行の遅さに苛立つ様子が…
6人いる係なのに、実質1人でやっているようなもの。
5人は何もわかっていませんでした。
会の終了後、係の子達を集めて反省会。
1人は準備をしていたことは知っていましたが、5人は何をしたのか知りませんでした。
「今日までにしてきたことは何ですか?」と尋ねると揃って「何もありません」と。
まぁこういうことはありますよね。思いっきりすっ転ぶことも大切です。
5人の子達には時間をもらったのなら準備をする責任をもつということを伝えました。
さて、準備をしていた1人が大号泣でした。
みんなに満足をしてもらえなかったことが哀しかったとのことでした。
そう。彼は失敗して大号泣するほどの準備をしていたんです。
たまたまその日、その子の保護者と懇談会をする日だったのですが、その話で切り出すと…
「一週間ぐらい前から準備していたんです。色々と相談を受けて、一緒に考えて…近づくにつれて、『もうすぐだ~、みんな喜んでくれるかな』と言っていたんですよ。」
そんな風にお母さんは話してくれました。
そのとき僕は大号泣の本当の意味が分かりました。
僕ら教師って、どうしても学校の姿しか見えません。自分自身が子どもたちに見せてない時間があるのと同様に、子どもたちにも僕らに見せてない時間がいっぱいあるんですよね。
そんなこと、とっても簡単で当たり前のことなのに、そこに思いを馳せることは何故だかとっても難しい。
見えているものだけを見つめるのではなくて、子どもたちが過ごしている時間と空間にも思いを馳せて指導できると、もっと優しく、もっと寄り添える気がするな。
コメントを残す